2024年4月19日金曜日

「エッジライト」の美しさ 絵画・映画

 Edge Light

人物に背後から逆光が当たると暗いシルエットになる。そして光が強いと、シルエットの輪郭(エッジ)に沿って細く強い光が生じる。それが「エッジライト」で、写真のライティングとしてよく使われる。

絵画でもたまに「エッジライト」の絵がある。例えばルノワールの「海のほとり」という絵で、写真ほど強烈ではないが、逆光の少女の腕や背中に背後からの光が当たっている。


そのルノワールの晩年を描いた映画「ルノワール  陽だまりの裸婦」(2013 年)は、「エッジライト」を多用している。(「エッジライト」は、映画用語では「リムライト」と呼ばれる。)

老齢で身体が不自由になったルノワールだが、若いモデルと出会って、創作意欲がよみがえる。光あふれる自然の中でポーズをとらせて描く。映画は全編でルノワールの絵画の明るいイメージに合わせた映像作りをしている。そして「エッジライト」が効果的で、南仏の明るい光を強調している。





(なお映画で「ジャン」という名の青年が登場するが、ルノワールの息子で、後に映画監督になって「大いなる幻影」などの名作を残すジャン・ルノワールだ。)

2024年4月17日水曜日

セザンヌは「キュビズム」の ”はしり”

Cezanne and Cubism

「キュビズム  美の革命」展(国立西洋美術館、〜2024.1)があったが、入場するとすぐにセザンヌの作品数展が並んでいた。 セザンヌはキュビズムにつながる美の革命の先駆者だったとされているが、同展でもそのことを強調していた。

対象を固定した同一視点で描くのが 19 世紀までの絵画だったが、そのために遠近法(透視図法)は絶対だった。それを覆して、あちこちから見た対象を混ぜて描くことで、絵画に革命をもたらしたのがキュビズムだった。

セザンヌはその「多視点」絵画をキュビズムに先立って始めた先駆けだった。遠近法をいかにはずしているか、「リンゴとオレンジ」で調べてみた。3つの食器の楕円が手がかりになる。


それぞれの楕円の丸みが大きく異なっている。手前の皿は丸みが強く、かなり真上から見ている。奥の水差しは楕円が薄いので横から見ている。足つき果物台はその中間になっている。そしてそれぞれの楕円の中心軸はそれぞれバラバラの方向に傾いている。視点の位置と方向が同一画面内で動いていて「多視点」であることがわかる。


2024年4月15日月曜日

シド・ミードが描いた夢の車

「 Innovations」 by Sid Mead

最近の報道で 、USスチールが日本製鉄に買収されるというニュースが出てくる。「鉄は国家なり」といわれて、アメリカを支えてきた世界最強の USスチールが日本企業に買収されるとはびっくりする。

60 年くらい前の USスチール全盛の頃、広報誌「INNOVATIONS」が出て、みんな一生懸命眺めたものだった。鉄によるイノベーションで生まれる夢の車をシド・ミードの華麗なイラストレーションで描いていた。


力強い産業社会のイメージと夢のトラック

豊かな生活のイメージとゴージャスな車

車輪がなく、宙に浮いて走るホバークラフト型自動車

ドローン型飛行自動車

高速道路網で埋めつくされている都市のイメージ

大気汚染や交通渋滞に悩まされていた当時のアメリカの車事情が、これらの ”夢” に反映しているようだ。しかし鉄鋼でも自動車でも技術イノベーションに立ち遅れて、今度の買収に至ったという。”夢”ははかない夢に終わってしまった。


2024年4月13日土曜日

科学の軍事利用の元祖 アルキメデスの「死の光線」 

Archimedes Death Ray


科学の知見を軍事に応用し、戦争に使った最初の人は、紀元前3世紀のギリシャのアルキメデスだといわれている。ローマ軍との戦争で、敵軍船を攻撃する兵器を作ることを頼まれたアルキメデスは、「死の光線」を発案した。(「身近な物理学の歴史」より)

海岸線にたくさんの市民を並ばせて、それぞれに手鏡を持たせ、敵船に向けて集中的に太陽光を反射させる。すると敵船はあっという間に炎上してしまう。このとき市民を放物線上に並ばせるのがミソで、放物線の「焦点」に敵船が入ったとき一斉に光を浴びせる。

パラボラアンテナが放物線断面の曲面で電波を反射させ焦点にある受信装置に集めるのと同じ原理だ。アメリカの MIT は「死の光線」の再現実験をしたが、30 cm 角の鏡を130 枚使って30 m 先の木造船を発火できたという。

アルキメデスの祖国ギリシャはオリンピック発祥の地だが、聖火の採火式で、古代ギリシャ風の衣装の女性がパラボラ型の鏡でトーチに着火している。


2024年4月11日木曜日

レオナルド・ダ・ヴィンチは、「軍事技術者」だった

 Leonardo da Vinci

ダ・ヴィンチは宮仕えするときの履歴書に、自分の職業を「軍事技術者」と書いたという。当時のイタリアは小さな都市国家に分裂していて、いつも戦争をしていたことと、兵器の主流が弓矢から銃火器になったことで新兵器が必要になったことが背景にあるようだ。たしかにダ・ヴィンチの絵画は「モナリザ」や「最後の晩餐」など数点しかなく、画家は”副業” だったのかもしれない。

ダ・ヴィンチは機械のアイデアをスケッチ入りで記録した「手稿」を大量に残している。そのなかに軍事技術関係のものがたくさんある。ミラノにある「レオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館」は、ダ・ヴィンチの発明スケッチを模型にして再現していて圧巻で、イタリアに行ったらおすすめの場所だ。その日本展「知られざる科学技術者レオナルド・ダ・ヴィンチ展」(1998 年)があった。(下の画像は同展の図録より)


「戦車」 中に人間が入って駆動する。全方向に向いて銃が装備されている。4つの車輪は独立しているので自由に方向転換できる。(模型は一部断面で内部を見せている)


「機関銃」 11 個の銃が3段に並べられていて、計 33 の銃口を持つ。1段目を打ち終えて弾を装填すると、すぐに 2・3段目を続けて撃つことができる。(スケッチは3案が描かれている) 


「城壁攻撃用はしご」 車輪のついた台にはしごが装備されている。堀の手前で停止させ、はしごを倒し城壁に架けて城内に一挙に攻め込む。はしごには屋根がついていて、上からの銃撃から兵士を守る。


「大鎌をもつ軍船」 船首に大鎌を備えていて、素早い振り下ろしで敵船を破壊する。鎌は回転台座に乗っていて、どの方向へも向けられる。



2024年4月9日火曜日

暮れ残る空「マジックアワー」の光の美しさ  ミレーの「晩鐘」と映画「天国の日々」

Magic Hour 

写真や絵画で「マジックアワー」という言葉がある。日没時には、真っ赤な太陽の光が空を染めるが、それが終わって、太陽が地平線の下に沈むと、地平線の下から空へ向かって光が照らされる。空に反射した間接光なので、光は弱く優しく、微妙な色に輝く。完全に暗くなるまで 20 分くらい続くが、一日のうちで空が最も美しい時間帯で「マジックアワー」と呼ばれる。日本語の「暮れ残る空」に近い。

「マジックアワー」の光を描いた有名な絵画はミレーの「晩鐘」だ。わずかに明るさを残す空を背景に農夫夫婦がシルエットで浮かび上がっている。マジックアワーの光は詩情や郷愁の感情を呼び起こす。



映画で、「マジックアワー」の光の美しさを最大限生かした映画が名作「天国の日々」だった。ミレーの「晩鐘」と同じく、見渡す限りの平原を舞台にした農民の物語だが、ほとんどすべてのシーンが「マジックアワー」で撮影されている。

マジックアワーの微妙な光を背景に、平原のなかにポツンと一軒だけの豪邸が建っている。建物は暗いシルエットになり、左側面だけがまだほのかに明るい。古い様式の建物が、映画の時代設定の 1910 代の雰囲気を出している。空の色と相まって、映画全体を覆う郷愁感を高めている。 (・・・・建物に住んでいるのは若い男一人だけで、彼は農場の所有者の金持ちなのだが、余命がいくばくもない。・・・・) 



遠くの地平線まで平原が広がっていて、ミレーの「晩鐘」とまったく同じ構図のシーン。マジックアワーの雲がピンクがかった柔らかい色に染まっている。人物は暗いシルエットに沈んでいる。 (・・・・主人公の二人は農場に働きにきている貧しい季節労働者で、夫婦なのだが兄妹と偽っている。・・・・)



一日の農作業を終えて、宿舎に戻る季節労働者たちのシーン。マジックアワーの空が美しい。 (・・・・安い賃金で重労働させられている彼らの悲哀感をこの空が引き立てている。主人公の二人も、この境遇から抜け出したいと思っている。・・・・)



この映画は、準備をして待っていて、日が沈むと同時にマジックアワーの 20 分間に撮影したという。その光の美しさが、シーンに郷愁や哀愁の感情を与えている。「物語る」という俳優の役割を光がしている。だからこの映画の登場人物のセリフはとても少ない。


2024年4月8日月曜日

映画「黒い太陽 731」

「Men Behind the Sun」 

映画「オッペンハイマー」は、原爆という非人道的兵器を作ったことで、自責の念にとらわれる科学者オッペンハイマーを描いている。このような「科学者と倫理」の問題は日本にもあった。


戦時中の、科学者たちの研究組織「731 部隊」だ。細菌兵器を開発する目的で、さまざまな非人道的な実験が行われていた。隠蔽工作のおかげで永らく実態が闇の中に葬られていたが、近年その全貌が明らかになってきた。「七三一部隊と大学」という最近出た本は、部隊の実態を詳細に調べている。中国のハルピンにあった研究所に集められた数十人の京都大学医学部の優秀な科学者たちが活動していた。研究を指揮したのが部隊長の石井四郎で、京都大学医学部教授、医学博士、陸軍軍医中将、などの肩書きを持つエリートだ。


この七三一部隊の実態を映画化したのが、「黒い太陽 731」(1988 年、香港映画)だった。中国人を実験台に使って様々な生体実験をする。十字架に縛り付けて、空から細菌を振りまいて、兵器としての実効性を調べたり、感染した人間を生きたままベッドに縛り付けて、麻酔もかけないまま、身体を切り開いて内臓を取り出す生体解剖、などアウシュビッツ顔負けの非人道的医学研究だった。


やがてソ連軍が進攻してきて、日本の敗戦がはっきりすると部隊は撤退するが、あらゆる証拠を隠滅する。研究資料を焼却し、実験用の中国人は全員銃殺し、施設は爆破する。そして部隊長の石井四郎は日本に帰っても部隊のことは一切口外しないように厳命する。

ナチスドイツで同じく細菌兵器の研究をしていた医学者たちはほとんどが戦犯として死刑になったが、石井四郎の場合は連合軍に逮捕されることなく、東京裁判にかけられることもなかった。なぜか。それは部下には焼却するよう命じた研究資料を自分だけは密かに持ち帰り、それを細菌兵器の情報を欲しがっていた米軍に渡して、引き換えに逮捕を免れたのだ。そして研究者たちは何事もなかったかのように大学の医学部教授に復帰した。

戦後、オッペンハイマーは核兵器開発に反対したため、政府から反米科学者の烙印を押され、すべての公職から追放された。それほど原爆を作ったことへの自責の念が強かった。しかし、731 部隊の科学者たちはそうではなかった。